私ひとりの日の丸 5

ミドルトンプランテーションから帰ってくるなり、ナンシーにランチをさそわれてジーンと3人でそのままホテルのシャトルをつかまえてダウンタウンに出かけました。うれしいことにレストランは、Hynan'sとならんで有名なマグノリア、私が一番来たかったところ.外も店内も花で飾られ,とても美しく、料理も最高。ヒラメのフライをたのんだら、ルイジアナライ…
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私ひとりの日の丸 4

ロケ3日目。家では9時ごろに起きる私、昨日の7時半でも大変だったのに、今日はなんと6時15分集合なのです。朝食してては間に合わないので、お仲間たちと申し合わせて昨日の朝食でバナナとマフィンを取り置きしたのをもって真っ暗な中をバスにかけつけました。私たちの撮影のため,プランテーションが、一般公開の前にあけてくれたのです。 ミドルトン プ…
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私ひとりの日の丸 3

第2日目のロケはマグノリアプランテーション。敷地内に広大なスワンプが残されており、ワニや水鳥が多く生息し,野生生物保護区に指定されています。. ここは1676年以来,ドレイトンファミリーの所有であり11代目のドレイトンにより現在も経営されています このようにひとつのファミリーによって受け継がれているプランテーションはほかに類を見ません…
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私ひとりの日の丸 2

アメリカ写真協会のコンベンションは、最初の3日間は撮影ツアーが組まれています.複数のロケーションから希望の場所を選ぶのですが、人気のところは3ヶ月も前から定員一杯になってしまうので、個人的に現地で買ったのもありました。 チャールストンは1670年,英国の入植者160人から始まり,国王チャールス2世に敬意を表してチャールスタウンと名付け…
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私ひとりの日の丸

大変ごぶさたしました。アメリカ写真協会の国際コンファレンスが、今年はサウスカロライナのチャールストンで開かれるので、前からチャールストンは行きたい所だったので、面倒くさい手続きをやっとクリアして参加しました。行ってみると、約400人のなかでなんと日本人は私ひとり。私だけの為にちゃんと日の丸がかかげてありました。 ヒルトン系のエンバシー…
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昔話10

主婦一年生の私がアメリカに住み始めてまず買ったのがアルミのショッピングカート。スーパーにある押し型でなく、それを縦にしてひっぱるようにしたもので、大型のスーツケースをスケルトンにした形とかんがえればいい。誰も彼もこれをひっぱってあるいていた。これは買物だけでなくセルフのランドリーに洗濯物をつめこんで行くのにも便利。近くの商店街には、5&…
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昔話9

昔話8の後日談。私が3年後に日本に帰ってから,バーンスタイン氏から、彼の兄が日本に行くから案内してほしいという連絡があった。この人は大物の投資家で、毎年世界中を歩いてホテルや劇場,会社などを買収しているのだという。ある日,タクシーで帝劇の前を通りかかったとき、この物件を買いたいと言い出した。当時,帝劇は二階建ての劇場だけで、シネラマなん…
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昔話8

1957年、ニューヨーク ウオルドルフアストリア ホテルで、シルクコングレスのファッションショーが開催された。姑がツーピースになった着物を出品するというので、私はモデルの一人としてかりだされた。着たのは淡い水色のシルクオーガンディーに刺繍で花模様をデザインした短めの着物。スタイリストが買ってきた靴は無色透明のビニールにラインストーンをち…
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昔話7

波乱にみちた2009年もおわり、2010年があけました。 皆さん、お元気で新年を迎えられましたか? 今年こそ,実り或る良い年になるよういのります。 アメリカに住んでいた頃、いつも大晦日はニューヨークですごしました。タイムススクエアに繰り出して、いつのまにか知らない人たちと肩を組んで,長い列になって,大声でうたったり、笑ったりし…
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昔話6

森繁久彌さんが亡くなりました。また大きな星がひとつ消えました. 昔、大正会という会があって、私は昭和の生まれなのに,かわいがって頂いていた写真家の早田雄二先生につれられてその例会にお供させていただいていました。三船敏郎さん、高峰美枝子さんなど俳優、女優の方々や、財界の著名人の方々がメンバーで、若輩の私をあたたかく仲間にいれてくださいま…
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昔話5

私がアメリカへ始めて行ったとき、プロペラのDC6で2日間かかった。まずウエーキ島で翌朝給油、夜中ハワイで給油、つぎにサンフランシスコ、JALはここまででユナイテッドにのりかえてロスアンゼルス、ここからシカゴのりかえでワシントン、という訳でアメリカでも西から東までの直行便がなかったのです。給油時間、お客はおりてレストランに連れて行かれ機内…
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昔話4

私の住んでいたのは赤いレンガづくりの二階建てのアパートで各戸に出入り口があり、3段の白い大理石の階段がついています。奥さんたちはこれをたわしや洗剤できれいにみがいて、暑い夏の夕方にはこのつめたい階段に腰をおろして涼んだりしているのですが、私がまねして階段にすわってアイスクリームを食べていたら、さっそくお向かいの奥さんがやってきました。『…
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昔話3

私がアメリカに住んでいた1950年代、移民が多かった西海岸にくらべ、東海岸には外務省関係、銀行や大企業の支店かフルブライトなど交換留学生くらいで日本人はほんとに少ない時代でした。なにしろ渡米するには現地の身元引き受け人の証明書が必要だったのです。私の身元引き受け人は、かの有名なイエローキャブの社長さんでした。その関係でいろいろ面白い体験…
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昔話2

私の学校は白い大理石作りで、一階ロビーは中央に大きな階段があり、パーティーやイベントのときは、ここがショースペースになります。たとえば仮装舞踏会なら、ペアになってこの階段をおりてきて、それを審査員が審査して賞品がでたりします。とにかくクラシックでひろびろとした、ミュージアムみたいな校舎でした。 クラスメートはみんな楽しい連中で、私が新…
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昔話 1

1950~60年代,アメリカ東海岸には、大使館や銀行,大企業の支店のほかは、日本人の居住者はほとんど居ませんでした。なにしろ、婦人会や教会の集まりによばれ日本の話をしてくれと頼まれたときの質問は,『日本には電気がありますか?』とか、『木と紙の家で寒くないですか?』などというものだったのです。私の住んでいたところはワシントンとニューヨーク…
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